2012年9月1日に行った陸前高田・大船渡・気仙沼視察の様子をレポートいたします。
2012年9月1日
【参加委員】高岡・青柳・高橋・藤井・岡本・草谷・佃・岡野・若松(以上9名)
【迎えてくださった現地の方々】小笠原ちとせ(小学校教諭)さん、ご主人 明寛さん(中学校教諭)、ご子息 小笠原史晃くん(大学生)、気仙成田山の小林さん、仮設住宅の芳野さん、写真館の尾形さん
09:50 新幹線にて
一ノ関 駅に到着、レンタカーで陸前高田に向けて出発!
11:00 竹駒駅
大船渡線の震災前は竹駒駅があった場所にて、小笠原ちとせさん・史晃くん、芳野さんと合流。 震災前の写真を交えながら説明いただく。
駅舎は跡形もなく、線路の姿もないホームには、雑草もはびこって… 転々と残る白線だけが、かつてここがホームであった事を物語っていました。
光景の悲しさとはうらはらに、駅前には仮設の店舗が数件並び陸前高田の人々の、復興への力強さも感じました。
16:00 気仙成田山 金剛寺
流されてしまった鉄橋の残骸が痛々しい気仙川を渡り「気仙成田山 金剛寺」へ。 不動堂は、急な石段を登る高台にあるため、たくさんの人がここに避難。 この町のみなさんは眼下に広がる瓦礫の中、50日間もこのお寺に生活していました。 本堂はすべて流され、今は「成田の湯」の看板が掲げられる休憩所になっています。 ドラム缶にお湯を沸かして、入浴できるように整えられた所であったことがしのばれます。
振り返ると、何もなくなってしまった平らな土地の遠くに、高田松原の名残が見えていました。 この階段のすぐ下まで津波が押し寄せるなどとどうしたら予想できたでしょうか・・・? 町を見下ろす境内の木漏れ日の中で、 お寺のご住職の奥様であり、アルバムを受け取られた子ども達のお母様である小林さんに、 当時のお話を伺いました。
震災に襲われたのは、中学三年の生徒たちに卒業アルバムが渡る二日前でした。すでに中学校におさめられていたアルバムは、 子どもたちの目にふれることなく流されてしまいました。 小学校の卒業アルバムは、すでに子どもたちの家に持ち帰られていましたが、 一帯に500軒ほどあった家も、たった一軒を残して全て流されてしまいました・・・。
「児童夢基金の支援は、ほんとうにありがたいことでした・・・」と語る小林さん。
気仙中学・気仙小学校の生徒たちは一人も欠けることなく卒業することができ、復元できたアルバムは親にとっても心の支えになっているそうです。
美しい城下町の形を残す家並も、樹齢数百年を誇る由緒ある綺麗なしだれ桜も名勝の高田松原も、すべて波にのまれてしまいました。 高田松原は江戸時代の豪商・菅野氏が私財をなげうって6000本余りの松を植樹したもの。その後、時をかけて7万本のもなった松林は美しい防潮林となり、 全国に聞こえる白砂青松の名勝となっていました。
今はその面影もなく、「奇跡の一本松」だけが立っています。 松原の木々になぎたおされていく我が家を見た方にとっては辛い想い出とも・・・・・ 一部の人には心の支えの一本松も、別の方には痛みの象徴。。。。人々の思いは複雑だそうです。
しかし、震災があった時期が春先でよかった・・・ 津波が来た時間が、昼間でよかった・・・・ 時期によっては、もっと悲惨な状況にもなり得、より多くの犠牲者が出ていたに違いない。 昨年の今頃は、大量の大きなハエが飛び回っていたけれど、 一年を経た今は、そんなこともなくなったそうです。
復元されたアルバムや、資料をたくさんご用意いただき、丁寧に心のこもったお話をしてくださいました。
高校教諭の明寛さんにも当時のお話を伺いました。
・・・地震から10分。河口付近は広く水をたたえている川の水が一気に引き、気仙川の川底が見えた。 いったんはいつもの低い避難場所へ逃げたが、これは尋常ではない・・・と気づいた有識者の誘導で 小学校のある高台まで、みんなで逃げた。
津波が来るとわかっていても、お年寄りなど周囲に説得されても逃げない人も…。 波の威力や時間との闘いの中「手をはなして逃げろー!」という言葉に、一緒に逃げていた人をおいてきてしまった人々。命は助かったけれど、心には大きな傷を負っている人もたくさん。 本人の思い、周囲の思い。日常生活の中に、抱えている思いは計り知れない。
波にのまれても、瓦礫にぶつからなかったら、助かった人も多かった。ひとの運命は様々。 日常では、海が見えない場所にも津波が来る。
松原さえも見えないし、 はるかかなたに海辺の高い建物がやっと見えるだけ・・という立地にある竹駒駅周辺の人々は、警報が出ても誰も逃げなかった。
地震の片づけをしていた人びとは、津波に気づく間もなく流された。
50㎝の津波でも、養殖にたずさわる漁業関係者には壊滅的。今回の津波は10メートルを超えてきた。
【地震の教訓】
電気はまちがいなく止まる。電車は緊急停止がかかる。
今では、車にはいつもガソリンを満タンにしている。
外出時は常にラジオと食べ物を持っている。
缶詰・米・水・固形燃料・・・。桃缶は、中を食べたら外は鍋になる。
固形燃料3個ででごはん一合が焚ける
不動堂前にはボードにみなさんの想いが綴られていました。 小笠原ご夫妻も、ご家族の中でもまだ語り合っていない、当時の話を私たちに伝えてくださったとのこと。 震災の話をお互いの口から聞けたこと・・・それを「聞けて良かった」と思ってくださったこと。 それも「今、私たちにできること」の一つだったかもしれません。
13:20 幸福の黄色いハンカチ
菅野さんという方が、流れ着いた廃材を組んで「幸せが戻ってくるように」と自宅跡に黄色いハンカチを掲げたことを耳にした山田監督が訪問し、メッセージを手渡したそうです。
その後、丸太で塔もたてられ、 現在ではたくさんの黄色いハンカチが大漁旗とともにはためいていました。この秋、震災後の時代背景で映画作品がドラマ化されるそうです。
(脚本・監修は山田洋二 / 主演は阿部寛)
13:30 大船渡へ
昨年の視察で訪問した気仙小学校を車窓より見学。瓦礫はだいぶ少なくなっていましたが、その後積み上げられていた車が炎上し体育館まで火が及んだため、現在は校内立ち入り禁止。
海沿いへ出ると、車窓には野球場「オーシャンビュースタジアム」の状況が…。 巨額の投じた野球場は、落成式をして一週間ほどで津波の被害にあいました。まだ水浸しの部分もあり、満潮時には危険な状態にもなるそうです。 一度も試合の歓声を聞くことがなかった照明塔が、役目を果たせない中、すっくと立ち続ける姿が痛々しいです。
移動途中、高台を走る車窓から美しいリアス式海岸を見下ろすと 静かな青い海が広がっているのが見えました。 湾の中には養殖筏がきれいに並んでいて、 復興の兆しも見えました。 このおだやかな海があの恐ろしい海と同じ海だとはとても思えませんでした。
13:50 大船渡の屋台村
横丁のように仮設店舗が並び、中央の広場にはピザやスモークの窯などがある屋外テーブルもある立派な屋台村に、一同ワクワク。 お店の大将から、大船渡の住宅事情と、屋台村の現状などを伺いながら、数名に分かれて屋台で、おいしい海の幸をいただきました。 課題や疑問が積もっていく日々ながらも、復興へ向けて力を合わせて一歩づつすすんでいることが伝わってきました。
15:00 仮設住宅
訪問させていただいたのは、ポストや公民館など、集会スペースなども整えられている仮設住宅。 「その分移住するチャンスが他の仮設住宅よりも後回しになるでは」という懸念もあるそうです。
ご自宅とは違い、狭くて窮屈、夏は暑くて冬は寒い・・・。そんな暮しの中にも、少しでも快適に過ごせるようにと、住みやすさやの工夫が 随所に見受けられました。希望を見つける難しさ、働き口、通学の不便さ、日々のストレスとの闘い・・・・ 問題山積ながらも、日々の生活を家族でのりきっているご様子でした。敷地内の空いたスペースでしか遊べない子どもたちのために、 前の敷地を整備して遊び場をつくっているそうです。
16:10 奇跡の一本松
7万本の松林の中から奇跡的に倒木を免れ、今では復興支援のシンボルになっている一本松。 厚いコンクリートのユースホステル(休業中)が津波から木を守る役目を果たしたとのことですが、それにしても凄い生命力です。見上げると、青い空をバックにいくつものまつぼっくりがついているのが見えました。
根本には活性剤を撒かれたり、傷ついた幹に菰を捲いたりと、衰弱していく松を守るために色々と手が施されました。 一時的に回復の兆しが見えたものの、地盤沈下で、塩分の高くなった土壌では根を守ることができず、保存のために9/12に伐採される予定。
震災後は一本松近くにさえ行くのをためらっていたという明寛さんと一緒に、新しい仮設堤防の上へ…。松林も砂浜もなくなり、すっかり海岸線は地形が変わってしまったそうで、 海が全てを飲み込んで近くに移動してきたという脅威を感じました。
16:50 気仙中学校
校庭には、種類別に分けられた瓦礫の山がいくつもありました。 埋められるもの、リサイクルにまわるもの・・・。校舎に目を転じると、とても長くは正視できないほどの状態で 思わず撮影もはばかられるほどの姿。その破壊力を、校舎の前に立つものに見せつけていました。
呆然とする光景の中、掲げられた垂れ幕や設けられた掲示板には前向きな言葉が並んでいました。 この風景の中、子どもたちがどんな気持ちでこれを綴ったかと思うと、胸がつまりました。
17:40 気仙沼 打ち上げられた船
岩手県に別れを告げて宮城に入っても、沿岸は同じような光景が続きます。 しかし突然、違和感のある巨大なものが視界をさえぎります。 第十八共徳丸。港から500メートルも内陸に打ち上げられた大きな漁船でした。 震災前は誇らしげに活躍していた漁船が、行き場を失って無残な姿をさらしていました。
海に戻れば活躍できるとはいうものの、その運搬費は5億円。 すでに持ち主は、現役復帰させる事を諦め、気仙沼市は「復興記念公園のモニュメントにする」との考えから、現在も解体・撤去されずに保存されています。
人びとの家をなぎ倒していった脅威が、津波の教訓として残されるのか!?こちらもまた、一本松と同様に象徴としての保存の賛否が波紋を呼んでいるようです。
18:00 気仙沼港
気仙沼港に近づいてくると、また景色が一変。 津波にやられたままになっているコンクリートやRCの建物がたくさん目にはいってきました。 気仙沼自慢の水産業の復興には、まだまだ時間がかかるのだなという感じがひしひしと伝わってきます。 地盤沈下のため、港が下がり今にも海水がはいってきそうな緊張感さえありました。 観光客もたくさんきた当時の活気あふれる港へ戻るのはいつになるのでしょうか。
18:00 懇親会
ここからは写真館の尾形さんにもご参加いただき、今後のアルバム支援と「夢基金」のありかたについて話し合われました。
●子どもたちのアルバムへの思いは、大人とは温度差がある。
→押し付けられた「記念」になっては悲劇
●陸前高田に限らず、東北沿岸の各地からの申請を受けるべきか?
→申請フローを明確にする必要がある。
→受けるとすれば、その数量をどのように把握するのか?
どの地域で、何人が何冊のアルバムを必要としているのか?
これについては、尾形さんに「日本商業写真協会」に連絡をとっていただく予定。
●今後は卒業アルバム支援にフォ-カスする価値があるのかどうか?
→子どもたちにもっと必要な支援があるのではないか?
●高価な装丁のアルバムの是非
→データの形での復元は個人情報等の規制
●無料でアルバム復元する業者の危険性
→無料とうたっているが、実際は金銭を要求される例もある。
●児童夢基金ブランドのありかたについて。
→継続の為に「夢基金ブランド」をどう生かしていけばいいのか?
●ノベリティ製作について。
→ステッカー、缶バッジなどの作成とデザインについて
●真の支援とは?
→大がかりな事をするより、関係性を深めることに重きを置く
→一番大切なのは、忘れてないということを伝えること
●組織論について
→「夢基金」の組織としてのありかたを見直す時期に来ている
これらの議案や、課題を、現地の方々のお考えも伺いながら、意見を述べ合いました。 また、委員会では伺えない会計監査の草谷さんにも客観的に数々のご意見をいただきました。 今後は、委員会に場を移して、議論を重ねていきたいと思います。
今回の視察にご協力いただいた、現地のみなさまほんとにありがとうございました。